現在、「クラシック」と呼ばれるものも、当時の作り手が、新しいもの、独創的な何かを作り出そうと果敢に挑み、生み出された結晶であると考える。伝統をベースにしつつ、常に、これまでにないもの、新しい何かを作り出そうと挑戦してきた先人たち。アーティストとして、彼らの流儀を受け継ぎ、使命感を持って、「新たな靴の芸術」を求めて、自分なりに進む道が、三澤のアートである。
この世に存在するありとあらゆるもの、すべてが、靴のフォルムのレイヤーが重ねられた眼鏡のレンズを通して見ているように見える− 徹底的に靴の美を探求する中で、三澤は自然とこの特殊なレイヤーを手に入れた。すでに体の中に蓄積された膨大なイメージと特殊な「レンズ」越しに見える対象の残像。それらを組み合わせることで、見たことのない作品を生み出す。
機能美を兼ね備えた靴の芸術性に完全に魅了されたことから始まった三澤の作り手としての旅。その道程で、靴作りに必要な技術と知識を習得し、鍛錬を重ね、ストイックかつ徹底的に靴の美を探求しながら、世に存在する、ありとあらゆる靴のデータを脳内にアーカイブしてきた。そうしているうちに、靴の美は、「歩くための道具」としてだけでなく、アート作品や工芸品にもなり得ると思うに至り、渡墺。ウィーンでは、クリムト、シーレをはじめ、触れうる限りの美術に触れ、帰国後もさまざまな美術館、ギャラリーを訪ねては、そこで見た作品を脳内アーカイブに加えていった。気がつくと、視界に映るすべてのものが、あたかも靴のフォルムのレイヤーが重ねられたレンズ越しに見る風景として、見えてくるようになっていた。そして、それはもう外せない。意識せずとも、その透明な「靴眼鏡」は、三澤の体の、人生の、一部となった。
レンズ上の靴のフォルムは一定でなく、秩序立って整備された膨大な脳内アーカイブから、自由自在に引き出すことができる。特殊レンズのレイヤーを通して見た、さまざまな対象のイメージや残像が、意識的または無意識にアーカイブから選択された、いずれかの靴のビジョンとカチッと組み合わさり、一つの像を結ぶとき、三澤のアート作品が生まれる。
“想像とは、本質的に記憶の想起である。
想像とは、アイディアの組み合わせが何であれ、複数の要素をまとめる創作であり、経験から得た知識を新しいフォーマットにアレンジしていく一連の行為である。“工業デザイナーの巨匠で三澤とも交流のあったビジュアル・フューチャリスト、Syd Meadが語る「一連の行為」を、三澤は、靴職人として、また皮革工芸制作で培った高度な技術により、具現化する。終わりのない「靴の芸術」の探求、それが三澤の想像であり、創造だ。